「奇妙な」旅とは?〜long version〜
初めまして、tikoと申します。
ほんとうに沢山の、星の数ほどあるウェブサイトの中から、私のブログにご訪問くださり有難うございます。
わたし自身の紹介をします。
山奥で育った少年時代
生まれは、栃木のはずれ。
昼には山と田んぼだけ、夜には月と星の明かりだけしか見えないような田舎町。
全校生徒を集めても50人ちょっとしかいない小さな学校で、小学生時代を過ごしました。
山の上の大きな自宅には、祖父母と両親、年のすこし離れた妹と弟が一緒に暮らしていて、同じ学年だけど、1年ちかく生まれが早かった従兄弟と、いつも一緒に山や川を駆け回って遊んでいました。
リーダー気質の従兄弟にいつもついて回って遊んでいて、自分から何かをするというよりは後ろに控えているような子どもでした。
そして5年生の時に転校を経験します。
それでもまだまだ田舎でしたが、約400人の全校生徒の前でのあいさつの時に、見たことのない人の顔の多さに、足が震えたことをよく覚えています。
顔を見れば誰でも知り合い、という土地から、誰ひとり自分のことを知らない町へ。
ここからわたしは、ようやく人との付き合いかたというものを学び始めたのです。
自分を出すことが苦手だった中高生時代
中学校では、3歳から始めた水泳を3年間、部活動としてやっていました。
スタイルは個人メドレーを選びました。
一人でクロール、バタフライ、平泳ぎ、背泳ぎの4泳法をすべて、順番に泳ぐ種目です。
当時、まだ体が小さかったこともあって、他の単一の種目はすべて他の人に勝てなかったから、という後ろ向きな理由で・・・
花形といわれる、チームでのメドレーリレーなんかにはずっと出られなくて、長い間、悔しい思いを抱え続けていたのを思い出します。
それでも、大会でチームのためにポイントを稼ぐことには、喜びややり甲斐のようなものを感じていました。
他の種目ではどうしても勝てなかった友人に、個人メドレーで勝てたときは、公式の試合でもなんでもない只のお遊びだったのですが、とても嬉しかったのをよく覚えています。
高校は、県内でも有名だったバリバリの進学校へ。
勉強合宿という、「3日間軟禁されて勉強だけを行う」というユニークな修学旅行プログラムがあるくらいで、とにかく勉強第一の学校でしたね。
とはいえ、空いた時間の中で、クラスメートたちはそれなりに青春を楽しんでいたように思います。
わたしも、クラスの中心というほどではありませんでしたが、友人にも恵まれ、昼食の時はほかのクラスに行ってご飯を食べたり、放課後にゲームセンターに行ってみたり、図書館に集まって勉強をしたりしていました。
それほど話がうまいわけでも、見た目が良いわけでもなかったけど、それでも皆に受け入れられていたのは、小中学生の時に身につけた「人とかぶらないような自分の立ち位置」を見つけることが、たまたま少しだけ得意だったから。
今にして思い出してみると、そうだったように思います。
そんな控えめでささやかな生き方だけをしてきたわたしですが、大学生になってそれまでの抑圧から開放されるかのように、まるっきり正反対のことをし始めます。
情熱を燃やすことと、地に足をつけることを学んだ大学生時代
大学生時代はわたしにとって、光も闇も経験した味わい深い時期です。
そこそこの都内の国立大学に現役で合格。
都内に一人暮らしという、非常に恵まれた環境で、のびのびと大学生活を開始します。
この時期から「ジャグリング」を始めて、サークルにも入りました。
活動内容は外部からの依頼を受けて、ジャグリングパフォーマンスやステージを制作し、提供するというものです。
サーカスや大道芸を思い浮かべてみると、イメージしやすいかも知れません。
それまで表舞台に立ったことすらなかったわたしですが、ここでステージ表現の面白さにのめりこみます。
競技人口の少ない、小さな領域ならではの話かも知れませんが、国内でも指折りのトップジャグラーや、地球の裏側で活躍しているようなプロ・パフォーマーとも、いとも簡単に交流ができ、彼らのすさまじい技術を目の前で、何度も観ることができました。
好きな道具と、自分の体、舞台そのものを「仕立て上げ」て、カッコよさも美しさも不気味さも、自由にいきいきと表現できる。
観客が演者の動きに合わせて、水を打ったように静まり返ったり、ため息をついたり、全員で立ち上がって拍手を送ったりする、ライブ・パフォーマンスの感動はここでは語り尽くせません。
1日の大半を技術向上のための練習に費やし、ストリートパフォーマンスや大道芸といったものから、500人収容ホールを使った大舞台まで幅広く研究し、自分たちでもステージ制作を行う日々。
また国内の大会を運営したり、コンペに出場したり、ヨーロッパに行ってイベントに参加したりしました。
今の妻とも、このサークルで知り合います。
残った時間は小説、漫画、ゲーム、アニメなどのエンターテイメントをひたすら消化することに熱中。
当時のわたしにとっては、良質なコンテンツを吸収することすべてが、表現活動の糧だったのです。
しかし、そんな眩しくてクラクラしてしまうような日々も、いつまでも続くわけもなく・・・
いくら大学生にあり余る時間があるといっても、やりたいことが多過ぎて大学の授業どころではありませんでした。
当然、勉学はおろそかになってしまい、それまでそこそこの水準だった成績は、見るも無残なものに。
その結果として、2回もの留年という惨事を招き寄せてしまいます。
一度目の留年で寛大な態度を保っていた両親も、さすがに二度目を知った時は言葉が出ないようでした・・・
もちろん伝えるこちらの方も、あまりの申し訳の立たなさに喉の奥が凍り付いたようになりましたが。
一人暮らしは中止となり、大学まで片道2時間半の実家に戻るために、ひっそりと静まり返った深夜にひとりで、不甲斐なさと寂しさを噛み締めながら荷造りしたことを今でも思い出します。
自業自得そのものだと思いますし、当時のわたしの両親こそ、自分の息子の体たらくに相当の忍耐力を要求されたことが今なら少しは想像できますが・・・
ともあれここで初めて、わたしは経済的な自立というものを人生において強く意識し、それからの授業や就職活動は真面目に行いました。
せめて、親にこれ以上の迷惑をかけないように、早く自分の足で立たなければ。
就職氷河期であり、2度もの留年の経歴は絶望的と言われたことさえある中で、これまでの変えられない自分の成績とともに強い不安感と戦いながらの就職活動でしたが、結果的には希望していた数社からの内定を頂くことが出来ました。
自分の立場をよく考えて、地に足をつけた戦略構築と、下準備をしっかりと行ったことが奏功したのだと思っています。
今の企業を選んだ決め手は、将来子どもが生まれたら、『自分はこういう仕事をしているんだよ』と、わかりやすく伝えられるような業務内容だったから。
理由はメルヘンチックだし、実情もなにも見えてはいませんでしたが、それでも当時のわたしとしては、努力の甲斐もあって胸を張りたくなるほどの成果だったのです。
両親も、有名企業への就職に、自分のことのように喜んでくれました。
しかしわたしは忘れていました。就職はスタートであり、決してゴールではない、ということを・・・
仕事を自分の中に定着させるのに苦労し続けた社会人生活
紆余曲折を経て、ようやく経済的自立を手にしたわたし。
何もわからないながらも、多くの失敗を繰り返しながら、少しずつ会社の業務を覚えてゆきました。
社風は昔ながらの体育会系と言っていいもので、新工場立ち上げプロジェクトの担当になったときには、それこそ太陽が昇る前から日が変わるまで、ほとんど会社に寝泊まりしながら働く毎日。
決して平坦な道ではありませんでした。持てる全ての時間と労力をつぎ込んでも、解決できない課題。終わらない仕事。
理不尽極まりない上司、なかなか言うことを聞いてくれない先輩、思い通りに動かせない部下。
自分の力不足も大いにあったとは思います。
それでも前向きに、会社に従順にやり続けてきました。
まわりと同じように「仕事って、こういうものなんだ」と、呪文のように自分に言い聞かせて・・・
しかしそんな中、変わった先輩に出会い、少しずつ世界が変わります。
その先輩は、みんながみんな大変そうに仕事をしている中、一人とても楽しそうに仕事をするのです。
仕事が上手な人など幾らでもいましたが、仕事そのものを傍目から見て楽しそうにさばいている人など初めてでした。
わたしはすぐにその先輩が好きになりました。
仲良くなった時に、どうしてそんなに楽しそうに仕事ができるのか?聞いたことがあります。
彼の答えは「どうせ仕事をやるのであれば、面白おかしく楽しく仕事をしたほうが良いじゃないか」というものでした。
仕事を最初から辛いものとして考えてしまっていたわたしにとって、その考え方はとても新鮮でした。
彼に習って、ひとつひとつの仕事のやり方を見直してゆき、少しずつ仕事の楽しさを見いだせるようになりました。
そしてこのころ結婚し、ありがたいことにもうすぐ娘が生まれてくることに。
これから働き続ける自分の姿も、おぼろげながら見えてきた時。
わたしの人生にとっての最大の試練が訪れます。
娘の誕生と、妻の「急変」
娘は無事に生まれましたが、妻は出産の際にお腹に重い後遺症を残してしまい、ほとんど動くことすら出来なくなってしまったのです。
産後の女性はただでさえ、心身ともに消耗しきっている時期です。
だというのに、事後対応の悪さから、血腫がお腹の中に残ってしまい、開腹除去手術もできず、時間をかけて体内で吸収されるのを待つしかないという事態に。
立ち上がることすら困難なほどに衰弱しているのに、新生児の世話をするために、深夜でも必ず3時間毎に授乳をしなくてはなりません。
絶対安静レベルの体調でも、無理に無理を重ねて子育てをしなくてはならない状況。
このとき、妻は里帰り出産で関東の病院に。わたしの職場は関西でしたので、妻のバックアップはほとんど実家に任せてあったような状態でした。
このときほど里帰り出産を選択したことや、全国転勤のある会社であることを後悔したことはありません。
休職してでも妻の元へ駆けつければよかったのですが、当時のわたしはまだ事態を甘く考えていて、関西に戻ってきてからでも遅くないと考えて、仕事を中断することをしませんでした。
帰省予定の1ヶ月後を過ぎ、2ヶ月、3ヶ月・・・
どうも様子がおかしい妻。
よくよく聞くと、腹部の後遺症に加えて、長期の産後うつを併発しており、まともに社会生活を送ることが難しくなる時もあるとのことでした。
私には迷惑をかけないようにと、意識的にその実情を隠してくれていたそうです。
私は妻と娘のすべてを背負う覚悟を決めて、関西に二人を連れて帰ってきました。
精神的にどん底だった、初めての育児
同居を再開したあとの妻との関係は、客観的に見ても酷いものだったと思います。
明るく、よく笑い、理性的で活発な妻でしたが、ほんとうに全くの別人のようになってしまい、ほんのささいなことで激しく怒りをあらわにしたり、深く落ち込んだり、ふらりと一人でどこかに消えてしまったり・・・
情緒が非常に不安定で、ひょっとすると不意に自殺しかねないくらいの精神状態だったんです。
産後うつは通常、産後2週間程度で良化すると言われていますが、1割程度は長期化し、慢性化します。
妻の場合は慢性化した上に、症状は特に重篤な類のものだったと思います。
体調の回復も、通常よりもずっと緩やかでしたしね。
しかし、授乳を行うために投薬治療なども行えず・・・(一般的なうつ治療は、投薬による理学療法と精神的なメンタルヘルスの併用が有効であると言われています)、自家での治療は光明のまったく見えない、非常に根気を必要とするものでした。
いっぽう、仕事はというと・・・
育児と妻の療養のために、仕事は極限まで工夫を凝らして、定時退社ができるようにまで改善を行いました。
しかし不思議なもので、あたらしい働き方を今までと同じ環境で実行していくと、思いもよらない抵抗力が生まれます。
仕事の効率はむしろ上がっているはずなのに、社内での評価が下がり、後ろ指をさされ始めたのです。
仕事の質は落とさず、周りの人と楽しく仕事をすることもおろそかにはしていないにも関わらず、です。
こうなるともう全く面白くありませんでしたね。
一生懸命に工夫をして早く家に帰り、次の日の分を含めた食事を作って、もろもろの家事をこなしきって、ときに冷たくあしらわれ、一晩中泣き続けられ、また次の日会社ではまるで働いてないかのような言い方をされ・・・・
なんのために、働いているのか?
なんのために、生きているのか?
この時期は精神的にどん底でした。
晴れているはずの空が真っ暗な灰色に見えたり、自分というものが緩やかにバラバラに散っていってしまうかのような感覚を得たりしたこともあります。
うつ病の初期症状ですね。
このときの私がどうにか自我を保つことが出来たのは、まだ何も出来ない、しかし少しずつ確かに世界とつながっていき、死んだような私を希望に満ちた目で見つめてくる、0歳の娘が居たからです。
子どもの成長とともにクリアになる視界
子どもは1日や2日で変わらないと言われる方も居ますが、まったくもってそんなことはないと私は思います。
ともすると、1時間もあれば劇的に成長してしまうのが子どもなのです。
できないことが、どんどんできるようになっていく。
初めての子育ては不慣れそのものでしたが、その変化と表情のひとつひとつが新鮮で、全身をあますところなく使って強欲に成長しようとする姿には、非常に心打たれるものがありました。
しかも、その全てを心から楽しんでもいるようで、赤ちゃんの生きる力というものは、これほど真っ直ぐで、純粋で、人を魅了することができるものなのだと知りました。
かつて自分が熱狂したジャグリングステージと、同じような輝きを娘は持っていたのです。
いつしか私は子育てにのめり込んでいき、妻とは衝突もしょっちゅうでしたが本気で悩んだり笑いあったりしていくうちに、ゆっくりと、降り積もっていた雪が溶けるように妻との関係は快方に向かいました(それでも良くなるには、3年以上はかかりましたが・・)。
仕事は定時帰りを続けていましたが、こちらも続けていくことである程度の地位と、周囲の理解を得ることが出来、すこしは居心地が良くなり始めました。
しかし、視界がクリアになることで、それまでの悩みを一つ一つ棚卸ししていくうちに気がついてしまったのです。
自分は、いまの仕事をこなす時間よりも、家族と一緒に過ごす時間の方が大切である、ということに。
そして、いまのままで居ては、自分の考える理想世界に、永遠に到達できないであろうということにも。
「仕事を楽しくやる」という考え方は、わたしにとってベターな考え方ではありましたが、ベストな考え方ではなかったのです。
「仕事を楽しくする」という考え方を発展させ、「人生をより楽しくするためには、どうしたら良いのか?」を考え、そのための方法を調べ始めます。
ネットビジネスとの出会いと、これからの展望
そしてネットビジネスという言葉にたどりつきます。
調べていく内に「自分の人生や時間、大切な人を守ること」と「仕事を心から楽しむこと」を、わたしの理想に近いレベルで両立している方がいることを目の当たりにしました。
さらに情報を集めていくうちに、今わたしがしているように、ネットを使って情報を発信することで、一般的な常識からはかけ離れたスケールと、スピード感を持ったビジネスとして展開し、収益化をも行うことができるということを理解していきました。
特にわたしを魅了してやまないのは、かつて出会った会社の先輩のように、またわたしの小さな娘のように、好奇心を全開にして、見るものや行うことに全力で、とても楽しそうに活動をしている方たちです。
わたしも、誰かを魅了し、そして誰かと心から楽しみたいと思った。
わたしはこれまでの自身の経験と、ここまでに得た知識のすべてを総動員して、同じような願いを持って集まってくれた方、もしくは過去の私と同じように、思い悩んでいたり苦しんでいる方のために力を尽くしたいと考えています。
きっかけは後ろ向きであっても、逃げたいという気持ちであっても良いと思います。
その後の行動で、結果的にあなたの未来がより好ましいものになっていくのなら、動機の種類などまったく関係ありません。
これまでにわたしが体験してきた唯一無二の経験を、今度はわたしがコンテンツとしてメルマガや記事で表現・提供していきます。
例えば・・・
・ジャグリングパフォーマーとして世界を旅し、得てきたステージ構築コンテンツ
・仕事のパフォーマンスを上げ、効率も楽しさも両方手に入れる方法
・産後うつの妻とのやり取りの中で学んだ、どん底からのパートナーシップV字回復の方法
・0歳の娘と同じ目線を持ち続けて見つけた、子育てがバカみたいに楽しくなる方法
・ネガティブな動機だからこそ人を魅了する、ネットを駆使した生きたビジネスのはじめ方
などなど。
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最後まで読んで頂き、ありがとうございました。