情報発信のコモディティ化とは?対抗手段は?何を言うかよりも、誰が言うか。

こんにちは、tikoです。

今回は、情報発信において重要なマインドの一つをご紹介したいと思います。

「何を言うかよりも、誰が言うかの方が大切」・・・

こんな言葉を聞いたことがあるでしょうか?

日常会話では、おそらくシニカルな使われ方をすることが多い言葉だと思います。

例えば、自分が伝えても言うことを聞いてくれない部下に対する愚痴を言う時。

もしくは、自分よりもはるか高い地位にいる方の話を聞いて、「到底実現できそうにない」とぼやく時などですね。

これらは後ろ向きな使われ方ですが、情報発信を続けていくと不意にこのような思いに囚われてしまうことが多々あります。

自分の言っていることって、あの人のこの言葉の焼き増しだな・・・

威性もなにもない自分が発信した言葉なんて、人の心に響くんだろうか?・・・

などなど。

これはマルクスが提唱した経済学の専門用語でコモディティ化、もしくは陳腐化と呼ばれる現象です。

一般にはいちど市場などのオープンスペースに出たものの価値がだんだんに目減りしていく現象のことを言いますが、コモディティ化はあらゆる物事に起こりうる必然の現象です。

もちろん情報発信でも同じで、発信する内容が上記のようにコモディティ化していき、発信する話の内容やネタが無くなっていく状況に陥っていしまう方が散見されます。

情報発信においては、誰に何のメッセージを強く伝えていきたいのかを考え続けることがとても大切ですが、実は何を話すのかということは、その相手にとっての「誰か」になっていくための階段なのです。

・・・ちょっとわかりにくいですね。

これに関連して、私がジャグリングパフォーマーとして、ひとつ階段を登れたエピソードにからめて、腑に落ちるように説明していきたいと思います。

君の演技は「陳腐」だ、と言われた過去

これは私がパフォーマーとして、まだまだ駆け出しの頃の話です。

私は来たるべきステージに向けて、演技を通しで先輩に確認してもらうという練習を行っていました。

その頃の私は、練習すればするほど自分のできる技が増えていくのに快感を感じていて、どんどん難易度の高いと言われる技を自分のものにしていきました。

当然、ステージで披露する演技にも、ものにした難易度の高い技をふんだんに盛り込み、当時の私のできる最高峰の演技をつくりあげることに躍起になっていました。

そして、自分なりに工夫を凝らした演技を、自分の最高を出し切る思いでやり遂げ、見ていた人からのフィードバックをもらうことに。

皆からの評価は良好で、私は満足でした。しかしそんな私に対して一人だけ、こう言ってきた先輩がいたのです。

「君はちょっと、プロ意識が足りないね」

私は予想外の方向からのダメ出しに面食らいました。

その先輩は、国内の大会で優秀な成績を納めてはいましたが、すこし孤高なところがあって、その物の言い方からちょっぴり周囲から敬遠されがちな方でした。

批判されているポイントがわかりにくかったので、詳しい説明を彼に求めると、こう返ってきました。

「たくさんの技を盛り込んで、そりゃ見る人にとってはすごそうに見えるかも知れない。でももう少し、自分をプロとして見る目を持ったほうが良い。だってお客さんは、君の技を観に来ているわけじゃなくて、『君』を観にきているんだから

最初は言われていることが腑に落ちなくて、こんなに高難度の技をちりばめた演技に、どうしてそんなことを言われなくちゃならないんだろう、と思わずにはいられませんでした。

今にして思い返すと、私はちょっと天狗になっていたように思います。

それから、録画した映像で自分の演技をチェックしてみました。

すると、たしかに彼の言った言葉の意味がよくわかるのです。

画面の中の私は技を成功させることに夢中で、見ている人の意識に目が向けられていなかった。

見る人の期待感や、緊張と安心の移り変わりを乗りこなして、もっともっと楽しんでもらおうという気持ちが足りていなかったことに気がついたのです。

演技をした本人である私が見てもそうなのですから、他の人から見たらなおさらそうだったでしょう。

技の「型」自体は、あたらしく考案したものでなければ、練習すれば誰でもできてしまうことです。

それを、きれいなフォームでやるか、大げさにやるか、小さく小さくまとめるか、誰も見たことのない奇抜な動きを絡めるか・・・は、演技する人が見る人のことを考え、工夫して決定するところなのです。

つまり先輩が言いたかったことは、

何の技を盛り込むのか?

ではなく、

私が演技をする中でお客さんに「見せたい」世界は何なのか?

というところだったのです。

コモディティ化に対抗するために

何を言うか、ではなく誰が言うか、という話に戻りますが、

情報発信という舞台で、何かを人に伝えること、その内容については「布石」という位置づけになります。

何よりも大切なのは、その布石をちりばめて、あなたが伝えたい相手にとっての「誰か」になる、ということ。

情報発信において、何を発信していくのか?

自分の言葉が、誰かが言った言葉と同じであるように感じてしまったとしても、その言葉をあなたなりにどう工夫して、どのようにあなたの届けたい相手に届けていくか、ということが何より大切な気構えになるのです。

そうして心をこめて布石を打っていって、人はその一つ一つの布石に魅力を感じていき、そしてその流れによって、人は感動したり魅了されたり、とりこ・・・になるのです。

誰が言ったかよりも、あなたが何をどう言うか、ということですね。

70億の人間がいるこの地球上で、全ての人とまったく異なる、完全なるオリジナルを行い続けることは難易度が高いですし、たとえ出来たとしても、時間とともにその価値はどうしても薄れていって(=コモディティ化して)しまうものなのです。

 

より厳密に言うと、オリジナリティを表現するフィールドは単発のノウハウではなく、時間的な厚みをもったストーリーやキャラクター性などが適しています。

これについてはさらに話が長くなってしまいそうなので、またの機会に・・

以上、情報発信におけるコモディティ化とその対抗手段について、でした。