絶望が輝くとき。ひとの幸せを知るために欠かせない闇の話

こんにちは、tikoです。

今回は、絶望が人に幸せをもたらす・・・?というお話をしていきます。

幸せ論は私たちの時代のメインテーマであり、多くの人が人生に迷い、思い悩み、苦しんでいる現代だからこそ考え続けなければならないものです。

ビジネスの原点とは何か?それは価値の提供、つまり相手が幸せを感じられる価値を手渡すことであり、これによって目の前の人から感謝してもらえるだけでなく、提供者自身もそこに幸せを感じとることができるのです。

情報発信はこれを実現するための方法、というわけですね。

でも、幸せって何でしょうか?あなたはこの問いに、迷いなく答えることができるでしょうか。

もしかすると、その答えを求めてこの記事に辿り着かれた、とか・・?もしそうなら、私はとても嬉しいです。一緒に悩み迷いましょう。

幸せって、考えれば考えるほどに、限りなく輪郭が不明確なモノですよね。

あるものを知るためには対極を知ることが、実は一番の近道だったりします。

人の絶望や闇といったネガティブなイメージについてよく知ることで、人の上に絶望が光り輝くときに、幸せもまたすごく近くにあるということに気付くでしょう。

幸せはもしかすると相対的なモノ

「絶対的な幸せ」っていうものがあるのかというと、なかなか難しいものがあるのはすぐに想像がつくことと思います。

お金がたくさんあることが幸せでしょうか?友人がたくさんいること?それとも、きれいな奥さんや、かっこいい旦那さんがいることでしょうか。

どれも、すぐには「それこそが幸せだ!」と、言い切りにくいものがあります。

数値化が難しい。比較するものによって幸せを感じる度合いは違うし、好みの問題もあるので主観的なフィルターがかかります。タイミングによってすら、同じ事象がいとも簡単に覆ります。

ヤバい薬をキメて、脳内で快楽物質をドバドバ出している状態が幸せか?というと、やっぱり違いますよね。

少なくとも、私やあなたの求める幸福って、こういったものではないと思います。でもよく考えてみると、今私たちが持っている幸せのイメージは、元をたどっていくと誰かから提供されたものである場合がほとんどです。

 

つまり私たちは、ほとんどの場合、相対的な尺度を持ってしか幸福を感じえない。

これがたまに聞く「全世界の幸福の総量は一定である」説の論拠であって、確かに一見、そのようにも捉えられそうな気もしてきます。

しかし、私個人的にはこの考え方はいかがなものかと思っています。だって、自分が幸せになったら、あるいは誰かを幸せにしたら、その分の不幸を誰かにおっかぶってもらっている、ということになりますよね?

そんなの嫌だし、嬉しいことに対して素直に喜べないような気がしてしまいます。

価値の交換は互いが得をするからこそ、お互いの幸福の総量が増えていかなければならないのです。私たちが目指していかなければならない姿って、こういうものです。

チョコラータの幸せ論

最近アニメ化もされた漫画「ジョジョの奇妙な冒険」の第五部には、主人公たちの行く手を阻む刺客の1客として、チョコラータとセッコというキャラクターが登場します。

このコンビは個性的なキャラクターぞろいの作中でもとびきり常軌を逸したキャラクターで、患者を惨殺することに快感を覚えるマッド・ドクターとその患者、という奇妙な関係性を持った二人組です。

うち、チョコラータの方は主人公組との戦いの中で自分の幸福論を展開し始めます。

命の獲り合いという極限状況下での、それとは程遠いセリフの応酬も作品の魅力の一つなのですが、それが中々興味深いので引用してみます。

「幸せ」には・・・「2つの場合」があると思うんだ

ひとつは 絶望が・・・希望に変わった時・・・幸せだと感じる

そして幸せだと感じる「2つ目」の状況は・・・!!絶望したヤツを見おろす時だあああーッ!!

引用元:ジョジョの奇妙な冒険 第五部「『グリーン・ディ』と『オアシス』」

流れとしては、主人公にとどめを刺そうとするその瞬間のために、2つ目の状況のことをより言いたかったのだと思います。

絶望した人(不幸な人)を見下ろす時の幸せ・・・これって、確かに多くの人が幸せを感じてしまう状況だと思うんです。「人の不幸は蜜の味」なんて言葉もあるくらいですしね。

これに続く形で、次のようにも言っています。

やったッ!見せろッ!表情をッ!わたしに絶望の表情をッ!

よおーく見せるんだッ!希望が尽きて・・・命を終える瞬間の顔をッ!

絶望をわたしの方に向けながら落下していけええええええええええ

引用元:ジョジョの奇妙な冒険 第五部「『グリーン・ディ』と『オアシス』」

彼はここまで清々しいほどに悪役に徹しており、ある種のカリスマ性もあってファンも多いキャラクターなんですが、このシーンの顔つきは笑顔の中に狂気をも宿していて、地獄の亡者のようにも見えます。

まあ、このあとの展開は作品全体の中でも指折りの有名なシーンに繋がってくるんですが、この記事で言いたいことはそれではなくて、他人に自分の幸福の拠り所を求めすぎると彼のようになっちゃいますよっていう話です。

自分が幸せと感じたいあまりに、他の人を絶望に叩き込む・・・そういうのって、私達が目指すべき姿とは程遠いはずです。

パンドラの箱

ギリシャ神話のパンドラの箱の逸話では、決して開けてはいけないとされる箱を好奇心によって開けてしまった結果、疫病や犯罪などの良くないものが世界に広がってしまったといいます。

そして最後に「希望」が残った、と。これには「予兆」や「期待」などいくつかの異なる解釈がありますが、「幸福」というものもあります。

つまりこう読み取ることもできます。「もともと世界には絶望がなければ、幸福も無かった」。

先程のチョコラータの「幸せを感じる1つ目の状況」である、「絶望が希望に変わった時」というのは、なかなかに言い当てていると私は思います。

過去にどんなトラウマじみた悪夢があったとしても、また今もしもあなたがそんな状況でも、それが希望に転じた時に大きな幸せを感じることができるし、そのストーリーは人の心を普遍的に動かしうるのです。

黒い太陽が頭上に輝く時、これを忘れてはなりません。

あなたの心の闇と、それを照らす光のコントラストが、あなた固有のブランディングヒストリーをより色濃く印象強いものにしてくれるのです。